2020年01月02日

現在を映しているのでは

霊界物語には現代の現在の状況を映していると感じられる場面がちょいちょい出てきます。私は、この場面、日本を映していると感じますので、長く引用します。

大気津姫命は現代で言えば超富裕層と考えるしかありません。
私の場合は、超富裕層A(数少ない)+超富裕層Bと考えたいです。
超富裕層には二種類あると思うからです。世界を支配している層と、それにくっついている層。

下の文章の八王には「ヤツコス」と仮名が振られています。
ヤツコスについては次のように語られています。

霊界物語第11巻第18章
虎公『八王といふのは、世界中の贅沢な奴が沢山な金を持ちやがつて、ウラル姫とか常世姫とか云ふ偉い贅沢な神が、大けな尻を振りやがつて大尻姫などと言つてる。その家来が皆家を持つて家を建てて方々から移転して来るのだ、それをヤツコスと云ふのだ。昔は十二も八王とか、八王とか云つた偉い神さんが、天山にも、青雲山にも、鬼城山にも、蛸間山にも、その外にも沢山あつたさうぢやが、今度の八王はそんな気の利いた八王ぢやない、利己主義の、人泣かせの、財産家連中の楽隠居をするのを、是れを称して即ち八王といふ。ヘン』

ヒツコス、クスの神については主体は大工のようにも読めます。
とりあえず、ヤツコスの家来および、ヤツコスに付いている庶民としておきましょう。
大工」というのは、非常に象徴的だと思います。

時公『コーカス山には、それ程沢山の大工が行つて何をするのですか』
乙『お前さんは、あれ程名高いコーカス山の御普請を知らぬのか。ソレハソレハ立派な御殿が、彼方にも此方にも建つて居る。さうして今度新しい宮さまが建つのだ。それでコーカス山の大気津姫とかいふ神様が家来をそこら中に配置つて、遠近の大工を御引寄せになるのだ。ヤツコスやヒツコスやクスの神が毎日日日、コーカス山に集まつて大きな都が開けて居るのだよ』

また顕国の宮として祭ったのは天地の神明で、正神。この世界をつくった神です。ウラル姫たちは、その神様を世界の隅に退隠させたのです。
後の方のウラル姫の歌も、なかなか、味わい深いものです。自分が押し込めた神に祈っているのです。

「ウラルの神の御教」というのは、天地の神明の教えとは逆の教えで、ウラル姫たちがこしらえた教えです。

さて、ほぼ全文を引用します。

霊界物語第11巻第23章
※改行 色付け 筆者

また、黄泉比良坂の戦に、常世の国の総大将大国彦命、大国姫命その他の神々は残らず日の出神の神言に言向和され、悔い改めて神の御業に仕へ奉ることとなつた。
其為め八岐の大蛇や、金毛九尾の悪狐、邪鬼、醜女、探女の曲神は暴威を逞しうする根拠地なるウラル山に駆け集まり、ウラル彦、ウラル姫を始め、部下に憑依して其心魂を益々悪化混濁せしめ体主霊従、我利一遍の行動を益々盛んに行はしめつつあつたのである。
悪蛇、悪鬼、悪狐等の曲津神はウラル山、コーカス山、アーメニヤの三ケ所に本城を構へ、殊にコーカス山には荘厳美麗なる金殿玉楼を数多建て列べ、ウラル彦の幕下の神々は、茲に各根拠を造り、酒池肉林の快楽に耽り、贅沢の限りを尽し、天下を我物顔に振舞ふ我利々々亡者の隠処となつてしまつた。かかる衣食住に贅を尽す体主霊従人種を称して、大気津姫命と云ふなり

大気津姫の一隊は、山中の最も風景佳き地点を選み、荘厳なる宮殿を建設する為め、数多の大工を集め、昼夜全力を尽して、宮殿の造営に掛り、漸く立派なる神殿を落成し、愈神霊を鎮祭する事となりぬ。流石のウラル彦夫婦も、天地の神明を恐れてや先づ第一に国魂の神として、大地の霊魂なる金勝要大神を始め、大地の霊力なる国治立命及び大地の霊体なる素盞嗚命の神霊を鎮祭する事となつたのである。

数多の八王神は競うて稲、麦、豆、粟、黍を始め非時の木の実、其他の果物、毛の粗きもの、柔きもの、鰭広物、鰭狭物、沖津藻菜、辺津藻菜、甘菜、辛菜に至るまで、人を派して求めしめ、各自に大宮の前に供へ奉る事とした。此宮を顕国の宮と云ふ。
此祭典は三日三夜に渉り力行された。数多の八王神、ヒツコス、クスの神達は、祝意を表する為め、酒に溺れ、或は歌ひ、或は踊り舞ひ狂ふ様、恰も狂人の集まりの如き状態なりき。

 顕国の宮は祭典始まると共に、得も言はれぬ恐ろしき音響を立てて唸り始めたり。ウラル姫は全く神の御喜びとして勇み、酒宴に耽りつつあつた。八百有余の八王神を始め、幾千万のヒツコス、クスの神は、
『サアサアヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカ  酔うてもヨイヂヤナイカ
 泣いてもヨイヂヤナイカ  笑つてもヨイヂヤナイカ
 怒つてもヨイヂヤナイカ  死んでもヨイヂヤナイカ
 倒けてもヨイヂヤナイカ  お宮が唸つてもヨイヂヤナイカ
 天地が覆つてもヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカ  山が割れてもヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカ
 三五教でもヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカ  ウラル教でもヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカ
 勝てもヨイヂヤナイカ  負けてもヨイヂヤナイカ
 何でもヨイヂヤナイカ  三日のお祭り四日でも、五日でも
 十日でもヨイヂヤナイカ  人はどうでもヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカ
 自分丈けよければヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカ  ウラルの教が三千世界で
 一番ヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカ  ヨイヤサのヨイトサツサ
 飲めよ騒げよ一寸先や暗よ  暗の後には月が出る
 月はつきぢやが運の尽き  尽きてもヨイヂヤナイカ
 亡んでもヨイヂヤナイカ  倒せばヨイヂヤナイカ
 三五教の宣伝使』
と無我夢中になつて、昼夜の別なく数多の八王神、ヒツコスやクスの神等に、数多の邪神が憑つて叫び廻る八王神の綺麗な館も、数多のヒツコスに土足の儘踏みにじられて踊り狂はれ、襖は倒れ、障子は破れ、戸は壊れ、床は落され、敷物は泥まぶれ、着物は勝手気儘に取出され、着潰され、雪解の泥中に着た儘酔つて転げられ、食ひ物は食ひ荒され、宝は踏みにじられ、大乱痴気騒ぎが始まつた、されどもウラル姫を始め数多の八王神は、何れも悪魔に精神を左右せられて居るから、皆好い気になつてヒツコス、クスの神と共に手をつなぎ踊り狂ふ。顔も着物も泥まぶれになつて居る。顕国の宮は刻々に鳴動が激しくなつて来た。ウラル姫は泥まぶれの体躯に気が付かず、忽ち顕国の宮の前に進み、
ウラル姫『コーカス山に千木高く  大宮柱太しりて
 仕へ奉れる神の宮  顕しき国の御霊たる
 速須佐之男の大御神  国治立の大御神
 金勝要の大神の  三魂の永遠に鎮まりて
 神の稜威のアーメニヤ  コーカス山やウラル山
 ウラルの彦の御教を  天地四方に輝かし
 我世を守れ何時迄も  此世を守れ何時迄も
 顕しの宮の唸り声  定めし神の御心に
 叶ひ給ひし御しるしか  日々に弥増す唸り声
 ウラルの姫の功績の  天地に輝く祥兆や
 嗚呼有難や有難や  天教山や地教山
 黄金山や万寿山  是れに集へる曲神の
 曲の身魂を平げて  ウラルの神の御教に
 心の底よりまつろはせ  天の下をば穏かに
 守らせ給へ三柱の  吾大神よ皇神よ
 神の稜威の幸はひて  遠き神世の昔より
 例もあらぬコーカスの  山に輝く珍の宮
 神酒は甕高しりて  甕の腹をば満て並べ
 荒稲和稲麦に豆  稗黍蕎麦や種々の
 甘菜辛菜や無花果の  木の実や百の果物や
 猪や羊や山の鳥  雉や鵯鳩雀
 沖津百の菜辺津藻菜や  種々供へし供へ物
 心平らに安らかに  赤丹の穂にと聞し召せ
 神が表に現はれて  ウラルの神の御教を
 堅磐常盤に守れかし  善と悪とを立別て
 此世を造りし国の祖  国治立の大神の
 神の御前に四方の国  百の民草悉く
 コーカス山に参ゐ詣で  ウラルの神の御教に
 潮の如く集ひ来て  我世の幸を守れかし
 アヽ三柱の大神よ  アヽ三柱の皇神よ
 心許りの御幣帛を  捧げて祭るウラル彦
 ウラルの姫の真心を  良きに受けさせ賜へかし
 良きに受けさせ賜へかし』
と一生懸命神前に拝跪して祈つて居る。此時数多の八王神、ヒツコス、クスの神は神殿に潮の如く集まり来り、又もや、
『ヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカ  お宮はどうでもヨイヂヤナイカ
 酒さへ飲んだらヨイヂヤナイカ  飲めよ飲め飲め一寸先や暗よ
 後はどうでもヨイヂヤナイカ  暗の後には月が出る
 運の尽でもヨイヂヤナイカ  この世の尽でもヨイヂヤナイカ
 ウラルの姫の泥まぶれ  笑うて見るのもヨイヂヤナイカ
 上でも下でもヨイヂヤナイカ  八王でもビツコスでもヨイヂヤナイカ
 三五教でもヨイヂヤナイカ  ウラル教捨ててもヨイヂヤナイカ
 お宮が唸つてもヨイヂヤナイカ  潰れた所でヨイヂヤナイカ
 お酒が一番ヨイヂヤナイカ  ヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカ』
数千の群衆は口々に酔ひ潰れ、泥にまぶれ、上下の区別なく飛廻り跳狂ひ踊り騒いで居る。

この後、正義の三五教の宣伝使が、これらに改心を迫り、コーカス山から追い出してしまうのですが・・・・


posted by 狭依彦 at 16:16| Comment(0) | 霊界物語第11巻 | 更新情報をチェックする

2019年12月21日

生替り死替り-第11巻第3章 死生観

感動的な章です。

私も、この場面はこの前後の他の場面とは違うような気がして、kindleでマークしておいて、後で見てみたら、有名な「死生観」の章であることに気が付きました。

これまでに、出口王仁三郎著作集とか、王仁三郎を語る本などではよく取り上げられていると思います。

難しい言葉も使ってありませんし、霊界物語でも最大級に現代の人でも読みやすい場面だと思います。知らない方は、ぜひ、章の全文を読んでいただきたい。


この章だけ読んでもよいのですが、頭でっかちになるかな・・・

この前には、一つ目のお化けとか出てきて、滑稽なやりとりもあり、ストーリーの中でこの章につながっています。

霊界物語をずっと最初から読んできて、この11巻の時点で挫折しておらず、この「死生観」も理解しており、ある程度ストーリーが頭に入っている状態で読めば、感動します。「腑に落ちる」とでも言うのでしょうか。

最初の部分を引用しておきます。

霊界物語第11巻 第3章 死生観

東彦『今度は真面目に聞きなさい。人間と云ふものは、神様の水火から生れたものだ。神様は万劫末代生通しだ。その神様の分霊が人間となるのだ。さうして、肉体は人間の容れ物だ。この肉体は神の宮であつて、人間ではないのだ。人間はこの肉体を使つて、神の御子たる働きをせなくてはならぬ。肉体には栄枯盛衰があつて、何時迄も花の盛りで居ることは出来ぬ。されどもその本体は生替り死替り、つまり肉体を新しうして、それに這入り、古くなつて用に立たなくなれば、また出直して新しい身体に宿つて来るのだ。人間が死ぬといふことは、別に憂ふべき事でも何でもない。ただ墓場を越えて、もう一つ向ふの新しい肉体へ入れ替ると云ふ事だ。元来神には生死の区別がない、その分霊を享けた人間もまた同様である。死すると云ふ事を、今の人間は非常に厭な事のやうに思ふが、人間の本体としては何ともない事だ』

さて、この「死生観」の思想とインドの輪廻とカルマの思想。私の中で、なかなか、統一がとれずにいます。

私は最近インド占星術を勉強しています。

インド占星術では、生まれた時点の惑星の位置を使うのですが、その惑星の位置を示したホロスコープはカルマの地図を表しています。

ホロスコープの中で、種々の条件によって、惑星は「強い」状態であったり、「弱い」状態であったりします。

強い惑星は過去生での良いカルマ・正しい行いから来ており、この惑星は、「教育、健康、職業、財産、他者との関係での幸せ、スピリチュアルな成長などの成功」などを与えてくれます。

弱い惑星は過去生での不都合なカルマを表し、「失敗、遅滞、否定、不安定、抑圧」などをもたらすことになります。

私の場合は、この「死生観」に触れたのが先で、若い頃でした。結構左脳で考えたと思います。
その頃、輪廻転生という言葉は知っていましたが、それとの関係は全く考えることも無く、この「死生観」を受け入れた「つもり」です。

かなり年をとってから、西洋占星術を始めて、その後インド占星術に変わりましたが、このカルマと解脱、「死生観」とどう違うのか、未だにはっきりしません。

はっきりさせるにはものすごい勉強が必要でしょうから、そんなに時間はかけられないので、このままのあいまいな状態でゆくつもりです。
posted by 狭依彦 at 11:49| Comment(0) | 霊界物語第11巻 | 更新情報をチェックする
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