2019年12月21日

生替り死替り-第11巻第3章 死生観

感動的な章です。

私も、この場面はこの前後の他の場面とは違うような気がして、kindleでマークしておいて、後で見てみたら、有名な「死生観」の章であることに気が付きました。

これまでに、出口王仁三郎著作集とか、王仁三郎を語る本などではよく取り上げられていると思います。

難しい言葉も使ってありませんし、霊界物語でも最大級に現代の人でも読みやすい場面だと思います。知らない方は、ぜひ、章の全文を読んでいただきたい。


この章だけ読んでもよいのですが、頭でっかちになるかな・・・

この前には、一つ目のお化けとか出てきて、滑稽なやりとりもあり、ストーリーの中でこの章につながっています。

霊界物語をずっと最初から読んできて、この11巻の時点で挫折しておらず、この「死生観」も理解しており、ある程度ストーリーが頭に入っている状態で読めば、感動します。「腑に落ちる」とでも言うのでしょうか。

最初の部分を引用しておきます。

霊界物語第11巻 第3章 死生観

東彦『今度は真面目に聞きなさい。人間と云ふものは、神様の水火から生れたものだ。神様は万劫末代生通しだ。その神様の分霊が人間となるのだ。さうして、肉体は人間の容れ物だ。この肉体は神の宮であつて、人間ではないのだ。人間はこの肉体を使つて、神の御子たる働きをせなくてはならぬ。肉体には栄枯盛衰があつて、何時迄も花の盛りで居ることは出来ぬ。されどもその本体は生替り死替り、つまり肉体を新しうして、それに這入り、古くなつて用に立たなくなれば、また出直して新しい身体に宿つて来るのだ。人間が死ぬといふことは、別に憂ふべき事でも何でもない。ただ墓場を越えて、もう一つ向ふの新しい肉体へ入れ替ると云ふ事だ。元来神には生死の区別がない、その分霊を享けた人間もまた同様である。死すると云ふ事を、今の人間は非常に厭な事のやうに思ふが、人間の本体としては何ともない事だ』

さて、この「死生観」の思想とインドの輪廻とカルマの思想。私の中で、なかなか、統一がとれずにいます。

私は最近インド占星術を勉強しています。

インド占星術では、生まれた時点の惑星の位置を使うのですが、その惑星の位置を示したホロスコープはカルマの地図を表しています。

ホロスコープの中で、種々の条件によって、惑星は「強い」状態であったり、「弱い」状態であったりします。

強い惑星は過去生での良いカルマ・正しい行いから来ており、この惑星は、「教育、健康、職業、財産、他者との関係での幸せ、スピリチュアルな成長などの成功」などを与えてくれます。

弱い惑星は過去生での不都合なカルマを表し、「失敗、遅滞、否定、不安定、抑圧」などをもたらすことになります。

私の場合は、この「死生観」に触れたのが先で、若い頃でした。結構左脳で考えたと思います。
その頃、輪廻転生という言葉は知っていましたが、それとの関係は全く考えることも無く、この「死生観」を受け入れた「つもり」です。

かなり年をとってから、西洋占星術を始めて、その後インド占星術に変わりましたが、このカルマと解脱、「死生観」とどう違うのか、未だにはっきりしません。

はっきりさせるにはものすごい勉強が必要でしょうから、そんなに時間はかけられないので、このままのあいまいな状態でゆくつもりです。


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posted by 狭依彦 at 11:49| Comment(0) | 霊界物語第11巻 | 更新情報をチェックする
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