2024年04月21日

UROサイト閉鎖 2024年6月

うろ―サイト http://uro.sblog.jp を閉鎖することになりました。(2024年6月)

格納サーバーのハッスル・サーバーが閉鎖または値上げするとの連絡が来たからです。

「うろー」は、2003年にはじめて、気が付いたら20周年、最後の何年かは全くまたはほとんど活動していませんでしたが、再度見てみると、私自身が残っているようで、閉鎖することには、なんかしんみりしてしまいます。

現在の私は、霊界物語を読むことも、何かすることもしていません(というか、出来ていません)
また、読める潮時が来たらいいと思います。

まあまあ元気で、
https://zyoumonka.seesaa.net/ で、縄文の歌の動画(Youtube)を作っています。


posted by 狭依彦 at 10:23| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2020年01月31日

13巻から進まない

霊界物語を続けて読んでいると、止まってしまうことがあります。

現在13巻なのですが、今がその状態です。

「ミタマ磨き」の話で、非常に斬新な話なのですが、何故か頭に入らず、疑問も出て来ず、一日二章くらいしか進みません。

昨日、小便茶の話が出てきたので、また、スピードが上がると思います。


posted by 狭依彦 at 09:02| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2020年01月02日

現在を映しているのでは

霊界物語には現代の現在の状況を映していると感じられる場面がちょいちょい出てきます。私は、この場面、日本を映していると感じますので、長く引用します。

大気津姫命は現代で言えば超富裕層と考えるしかありません。
私の場合は、超富裕層A(数少ない)+超富裕層Bと考えたいです。
超富裕層には二種類あると思うからです。世界を支配している層と、それにくっついている層。

下の文章の八王には「ヤツコス」と仮名が振られています。
ヤツコスについては次のように語られています。

霊界物語第11巻第18章
虎公『八王といふのは、世界中の贅沢な奴が沢山な金を持ちやがつて、ウラル姫とか常世姫とか云ふ偉い贅沢な神が、大けな尻を振りやがつて大尻姫などと言つてる。その家来が皆家を持つて家を建てて方々から移転して来るのだ、それをヤツコスと云ふのだ。昔は十二も八王とか、八王とか云つた偉い神さんが、天山にも、青雲山にも、鬼城山にも、蛸間山にも、その外にも沢山あつたさうぢやが、今度の八王はそんな気の利いた八王ぢやない、利己主義の、人泣かせの、財産家連中の楽隠居をするのを、是れを称して即ち八王といふ。ヘン』

ヒツコス、クスの神については主体は大工のようにも読めます。
とりあえず、ヤツコスの家来および、ヤツコスに付いている庶民としておきましょう。
大工」というのは、非常に象徴的だと思います。

時公『コーカス山には、それ程沢山の大工が行つて何をするのですか』
乙『お前さんは、あれ程名高いコーカス山の御普請を知らぬのか。ソレハソレハ立派な御殿が、彼方にも此方にも建つて居る。さうして今度新しい宮さまが建つのだ。それでコーカス山の大気津姫とかいふ神様が家来をそこら中に配置つて、遠近の大工を御引寄せになるのだ。ヤツコスやヒツコスやクスの神が毎日日日、コーカス山に集まつて大きな都が開けて居るのだよ』

また顕国の宮として祭ったのは天地の神明で、正神。この世界をつくった神です。ウラル姫たちは、その神様を世界の隅に退隠させたのです。
後の方のウラル姫の歌も、なかなか、味わい深いものです。自分が押し込めた神に祈っているのです。

「ウラルの神の御教」というのは、天地の神明の教えとは逆の教えで、ウラル姫たちがこしらえた教えです。

さて、ほぼ全文を引用します。

霊界物語第11巻第23章
※改行 色付け 筆者

また、黄泉比良坂の戦に、常世の国の総大将大国彦命、大国姫命その他の神々は残らず日の出神の神言に言向和され、悔い改めて神の御業に仕へ奉ることとなつた。
其為め八岐の大蛇や、金毛九尾の悪狐、邪鬼、醜女、探女の曲神は暴威を逞しうする根拠地なるウラル山に駆け集まり、ウラル彦、ウラル姫を始め、部下に憑依して其心魂を益々悪化混濁せしめ体主霊従、我利一遍の行動を益々盛んに行はしめつつあつたのである。
悪蛇、悪鬼、悪狐等の曲津神はウラル山、コーカス山、アーメニヤの三ケ所に本城を構へ、殊にコーカス山には荘厳美麗なる金殿玉楼を数多建て列べ、ウラル彦の幕下の神々は、茲に各根拠を造り、酒池肉林の快楽に耽り、贅沢の限りを尽し、天下を我物顔に振舞ふ我利々々亡者の隠処となつてしまつた。かかる衣食住に贅を尽す体主霊従人種を称して、大気津姫命と云ふなり

大気津姫の一隊は、山中の最も風景佳き地点を選み、荘厳なる宮殿を建設する為め、数多の大工を集め、昼夜全力を尽して、宮殿の造営に掛り、漸く立派なる神殿を落成し、愈神霊を鎮祭する事となりぬ。流石のウラル彦夫婦も、天地の神明を恐れてや先づ第一に国魂の神として、大地の霊魂なる金勝要大神を始め、大地の霊力なる国治立命及び大地の霊体なる素盞嗚命の神霊を鎮祭する事となつたのである。

数多の八王神は競うて稲、麦、豆、粟、黍を始め非時の木の実、其他の果物、毛の粗きもの、柔きもの、鰭広物、鰭狭物、沖津藻菜、辺津藻菜、甘菜、辛菜に至るまで、人を派して求めしめ、各自に大宮の前に供へ奉る事とした。此宮を顕国の宮と云ふ。
此祭典は三日三夜に渉り力行された。数多の八王神、ヒツコス、クスの神達は、祝意を表する為め、酒に溺れ、或は歌ひ、或は踊り舞ひ狂ふ様、恰も狂人の集まりの如き状態なりき。

 顕国の宮は祭典始まると共に、得も言はれぬ恐ろしき音響を立てて唸り始めたり。ウラル姫は全く神の御喜びとして勇み、酒宴に耽りつつあつた。八百有余の八王神を始め、幾千万のヒツコス、クスの神は、
『サアサアヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカ  酔うてもヨイヂヤナイカ
 泣いてもヨイヂヤナイカ  笑つてもヨイヂヤナイカ
 怒つてもヨイヂヤナイカ  死んでもヨイヂヤナイカ
 倒けてもヨイヂヤナイカ  お宮が唸つてもヨイヂヤナイカ
 天地が覆つてもヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカ  山が割れてもヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカ
 三五教でもヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカ  ウラル教でもヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカ
 勝てもヨイヂヤナイカ  負けてもヨイヂヤナイカ
 何でもヨイヂヤナイカ  三日のお祭り四日でも、五日でも
 十日でもヨイヂヤナイカ  人はどうでもヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカ
 自分丈けよければヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカ  ウラルの教が三千世界で
 一番ヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカ  ヨイヤサのヨイトサツサ
 飲めよ騒げよ一寸先や暗よ  暗の後には月が出る
 月はつきぢやが運の尽き  尽きてもヨイヂヤナイカ
 亡んでもヨイヂヤナイカ  倒せばヨイヂヤナイカ
 三五教の宣伝使』
と無我夢中になつて、昼夜の別なく数多の八王神、ヒツコスやクスの神等に、数多の邪神が憑つて叫び廻る八王神の綺麗な館も、数多のヒツコスに土足の儘踏みにじられて踊り狂はれ、襖は倒れ、障子は破れ、戸は壊れ、床は落され、敷物は泥まぶれ、着物は勝手気儘に取出され、着潰され、雪解の泥中に着た儘酔つて転げられ、食ひ物は食ひ荒され、宝は踏みにじられ、大乱痴気騒ぎが始まつた、されどもウラル姫を始め数多の八王神は、何れも悪魔に精神を左右せられて居るから、皆好い気になつてヒツコス、クスの神と共に手をつなぎ踊り狂ふ。顔も着物も泥まぶれになつて居る。顕国の宮は刻々に鳴動が激しくなつて来た。ウラル姫は泥まぶれの体躯に気が付かず、忽ち顕国の宮の前に進み、
ウラル姫『コーカス山に千木高く  大宮柱太しりて
 仕へ奉れる神の宮  顕しき国の御霊たる
 速須佐之男の大御神  国治立の大御神
 金勝要の大神の  三魂の永遠に鎮まりて
 神の稜威のアーメニヤ  コーカス山やウラル山
 ウラルの彦の御教を  天地四方に輝かし
 我世を守れ何時迄も  此世を守れ何時迄も
 顕しの宮の唸り声  定めし神の御心に
 叶ひ給ひし御しるしか  日々に弥増す唸り声
 ウラルの姫の功績の  天地に輝く祥兆や
 嗚呼有難や有難や  天教山や地教山
 黄金山や万寿山  是れに集へる曲神の
 曲の身魂を平げて  ウラルの神の御教に
 心の底よりまつろはせ  天の下をば穏かに
 守らせ給へ三柱の  吾大神よ皇神よ
 神の稜威の幸はひて  遠き神世の昔より
 例もあらぬコーカスの  山に輝く珍の宮
 神酒は甕高しりて  甕の腹をば満て並べ
 荒稲和稲麦に豆  稗黍蕎麦や種々の
 甘菜辛菜や無花果の  木の実や百の果物や
 猪や羊や山の鳥  雉や鵯鳩雀
 沖津百の菜辺津藻菜や  種々供へし供へ物
 心平らに安らかに  赤丹の穂にと聞し召せ
 神が表に現はれて  ウラルの神の御教を
 堅磐常盤に守れかし  善と悪とを立別て
 此世を造りし国の祖  国治立の大神の
 神の御前に四方の国  百の民草悉く
 コーカス山に参ゐ詣で  ウラルの神の御教に
 潮の如く集ひ来て  我世の幸を守れかし
 アヽ三柱の大神よ  アヽ三柱の皇神よ
 心許りの御幣帛を  捧げて祭るウラル彦
 ウラルの姫の真心を  良きに受けさせ賜へかし
 良きに受けさせ賜へかし』
と一生懸命神前に拝跪して祈つて居る。此時数多の八王神、ヒツコス、クスの神は神殿に潮の如く集まり来り、又もや、
『ヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカ  お宮はどうでもヨイヂヤナイカ
 酒さへ飲んだらヨイヂヤナイカ  飲めよ飲め飲め一寸先や暗よ
 後はどうでもヨイヂヤナイカ  暗の後には月が出る
 運の尽でもヨイヂヤナイカ  この世の尽でもヨイヂヤナイカ
 ウラルの姫の泥まぶれ  笑うて見るのもヨイヂヤナイカ
 上でも下でもヨイヂヤナイカ  八王でもビツコスでもヨイヂヤナイカ
 三五教でもヨイヂヤナイカ  ウラル教捨ててもヨイヂヤナイカ
 お宮が唸つてもヨイヂヤナイカ  潰れた所でヨイヂヤナイカ
 お酒が一番ヨイヂヤナイカ  ヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカヨイヂヤナイカ』
数千の群衆は口々に酔ひ潰れ、泥にまぶれ、上下の区別なく飛廻り跳狂ひ踊り騒いで居る。

この後、正義の三五教の宣伝使が、これらに改心を迫り、コーカス山から追い出してしまうのですが・・・・
posted by 狭依彦 at 16:16| Comment(0) | 霊界物語第11巻 | 更新情報をチェックする

2019年12月25日

御三体の大神

霊界物語を読んでいると、難定義語がいくつかあります。

「御三体の大神」という言葉もそれだと思います。

教義に直結する語であるので、非常に難しく感じます。

きっと、こういう言葉は、当時の天皇制に慮った言葉で、霊界物語を読む信者は別の所で聞いて意味を知っていたと思われますが、実際はどうだったのでしょうか?

例えば次の章 第1巻第二二章 国祖御隠退の御因縁

ここでは、御三体の大神と三体の大神が出てきます。
私には、違う存在に読めますが、どうでしょうか。

ちなみに、これについて、何を見たら分かるのか、どこに聞けば分かるのか?大本教団に聞いたら分かるのか?

私は、どうしたらよいか分かりません。

検索して、調べていたら、大本教団からの昔の資料がありました。


随筆『神霊界』大正8年8月15日号掲載

 大本皇大神と奉称すれば、天地八百万の神々の総称でありますから、一々神名を称へたり、一々特殊の神を祭つたりする必要は無いやうなものですが、併し是は普通二扁の理窟であります。

 皇道大本に現れた大国常立の尊様の御神示には、今度の二度目の天の岩戸開きに御用遊ばす神様から、一々神名を現はして、丁重に御祭つり申上げ、神界も人間界も共に勇んで暮す神国に致すぞよと在りますから、始めからの大本の役員信者は、重なる神々を祭祀し、且つ朝夕御神名を称ヘて居るのであります。先日修斎会副会長小牧氏より、重なる神名を発表されたいとの希望でありましたから、左に大略記しておきます。

 第一に御三体の大神を教祖様が御唱へになりました。御三体の神名は、

  高皇産霊大神……伊邪那岐大神……日之大神。
壱 天之御中主大神……撞榊向津姫尊……天照皇大神。
  神皇産霊大神……伊邪那美大神……月之大神。

 以上三列九柱を御三体の大神様と、教祖が奉称されました。

 天に在します大神様なれど、今度の二度目の世の立替に就て、地上の高天原ヘ御降臨遊ばして大国常立の命様の御神業の御手伝を遊ばすのであります。

 明治二十五年正月元朝寅の刻に、始めて教祖に神憑あらせられたのは、艮の金神大国常立尊様でありました。次に竜宮の乙姫玉依姫命が神憑せられ、次に禁闕要の大神(正勝金木神)澄世理姫尊が御憑りになつたので、最初の間は教祖様が、

   丑寅之大金神大国常立尊。
弐  禁闕要之大神……澄世理姫尊。
   竜宮之乙姫神……玉依比売尊。

 以上の三柱の神を祭つて居られましたが、漸次に出現神が次の如く現はれたのであります。

   雨之神……天之水分神……国之水分神。
   風之神……科戸彦神……科戸姫神。
   岩之神……岩長姫神……岩戸別神。
   荒之神……大雷男之神……別雷男之神。
   地震之神……武雷之神……経津主神。
   万の金神。並に大本塩釜大神。

 以上の神々も祭られたのであります。

 明治三十一年正月より、
   坤之大金神……豊雲野之尊。
   木花咲耶姫尊……弥仙山祭神。
   彦火火出美尊……同上。
四  豊受姫大神……伊勢外宮。
   稚姫岐美尊……伊勢烏の宮。
   大国主大神……出雲大社。

 次に明治三十三年四月八日より以後。

   大島大神……丹後冠島。
   小島大神……全沓島。

五  元伊勢神宮……丹後加佐郡。
   一宮神社……丹波福知山町。
   神島大神……播州牛島。

 其他に未だ沢山の神様が現れて居られますなれど、何れも御活動中でありまして、一般に神名を現はし祭るのは、神政成就後の事になりて居りますから略します。亦た役員や信者に憑依りして活動されて居る神様もあり、其の人々の守護神で、各自に活動して居られる神が、沢山に現はれて居りますなれど、是等も神政成就後に夫れぞれ御働きの多少に依つて、神界より許されて、国家の守護神と祭られ玉ふ事になるのであります。

 兎も角通俗的に教祖の奉称された御言葉は、次の通りでありますから、吾々始め大本の元からの役員信者は、教祖の御称なされた通りに、今に守つて居るのであります。

 御三体の大神様。
 日の大神様。
 月の大神様。
 艮の大金神……国常立の大神様。
 坤の大金神……豊雲野の大神様。
 竜宮の乙姫様……日の出の神様。
 禁闕金の大神……大地の金神様。
 弥仙山の木花咲耶姫命様。
 中の御宮の彦火々出見命様。
 大本塩釜御夫婦大神様。
 雨の神様。
 風の神様。
 岩の神様。
 荒の神様。
 地震の神様。
 八百万の金神様。
 取分け神風の伊勢に鎮まります。
 天照皇大神宮様。
 豊受大神宮様。
 於加良洲大宮神様を始め奉り、
 日本国中に鎮ります、世に出て御座る神様御一同様。
 昔から世に落ちて御守護遊ばし下さりました、八百万の生き神様。

 総産土の大神様の御前に、日々の広き厚き御守護を有難く御礼申上ます。

posted by 狭依彦 at 12:53| Comment(0) | 周辺知識 | 更新情報をチェックする

ピラミッド-霊界物語第8巻第9章

たわいもない話の中なのですが、ピラミッドが出てきます。

霊界物語第8巻第9章 鏡の池

黒彦『貴方の仰有る事はチツト違ひはしませぬか、此間も大中教の宣伝使が遣つて来て、蕎麦と言ふものは、昔の昔のズツト昔の其昔、天の御三体の大神様が柱の無い屋根ばかりの三角形の家を造つて、其処へお住居を遊ばした。其家の側に出来たので蕎麦と云ふのです。それで屋根の形に蕎麦は三角になつてるだらう、お前達の雪隠の側にも、家の側にも出来てるではないか。側に居りながら貴様は余つ程饂飩な奴だと云ひましたよ』

この場面は、ストーリーとは関係なく、蕎麦の起源のヨタ話で、語っているも邪神系統です。
「天の御三体の大神」は結構解釈が難しく、霊界物語では難定義語ではないかと思います。たぶん、天皇制の時代にははっきり書けなかったのではないかと思います。とりあえず、天の御三体の大神は三柱あるのではなく、1体の根本の神(この世の原因神)を三方向から見たものと解釈しています、私は。天の御三体の大神が宇宙人とは誰も言わないでしょうが、邪神系統のヨタ話の中で出てくれば、地球にとって大切な宇宙人なんて考えることもできるのでは。

posted by 狭依彦 at 12:25| Comment(0) | 霊界物語第08巻 | 更新情報をチェックする

2019年12月21日

生替り死替り-第11巻第3章 死生観

感動的な章です。

私も、この場面はこの前後の他の場面とは違うような気がして、kindleでマークしておいて、後で見てみたら、有名な「死生観」の章であることに気が付きました。

これまでに、出口王仁三郎著作集とか、王仁三郎を語る本などではよく取り上げられていると思います。

難しい言葉も使ってありませんし、霊界物語でも最大級に現代の人でも読みやすい場面だと思います。知らない方は、ぜひ、章の全文を読んでいただきたい。


この章だけ読んでもよいのですが、頭でっかちになるかな・・・

この前には、一つ目のお化けとか出てきて、滑稽なやりとりもあり、ストーリーの中でこの章につながっています。

霊界物語をずっと最初から読んできて、この11巻の時点で挫折しておらず、この「死生観」も理解しており、ある程度ストーリーが頭に入っている状態で読めば、感動します。「腑に落ちる」とでも言うのでしょうか。

最初の部分を引用しておきます。

霊界物語第11巻 第3章 死生観

東彦『今度は真面目に聞きなさい。人間と云ふものは、神様の水火から生れたものだ。神様は万劫末代生通しだ。その神様の分霊が人間となるのだ。さうして、肉体は人間の容れ物だ。この肉体は神の宮であつて、人間ではないのだ。人間はこの肉体を使つて、神の御子たる働きをせなくてはならぬ。肉体には栄枯盛衰があつて、何時迄も花の盛りで居ることは出来ぬ。されどもその本体は生替り死替り、つまり肉体を新しうして、それに這入り、古くなつて用に立たなくなれば、また出直して新しい身体に宿つて来るのだ。人間が死ぬといふことは、別に憂ふべき事でも何でもない。ただ墓場を越えて、もう一つ向ふの新しい肉体へ入れ替ると云ふ事だ。元来神には生死の区別がない、その分霊を享けた人間もまた同様である。死すると云ふ事を、今の人間は非常に厭な事のやうに思ふが、人間の本体としては何ともない事だ』

さて、この「死生観」の思想とインドの輪廻とカルマの思想。私の中で、なかなか、統一がとれずにいます。

私は最近インド占星術を勉強しています。

インド占星術では、生まれた時点の惑星の位置を使うのですが、その惑星の位置を示したホロスコープはカルマの地図を表しています。

ホロスコープの中で、種々の条件によって、惑星は「強い」状態であったり、「弱い」状態であったりします。

強い惑星は過去生での良いカルマ・正しい行いから来ており、この惑星は、「教育、健康、職業、財産、他者との関係での幸せ、スピリチュアルな成長などの成功」などを与えてくれます。

弱い惑星は過去生での不都合なカルマを表し、「失敗、遅滞、否定、不安定、抑圧」などをもたらすことになります。

私の場合は、この「死生観」に触れたのが先で、若い頃でした。結構左脳で考えたと思います。
その頃、輪廻転生という言葉は知っていましたが、それとの関係は全く考えることも無く、この「死生観」を受け入れた「つもり」です。

かなり年をとってから、西洋占星術を始めて、その後インド占星術に変わりましたが、このカルマと解脱、「死生観」とどう違うのか、未だにはっきりしません。

はっきりさせるにはものすごい勉強が必要でしょうから、そんなに時間はかけられないので、このままのあいまいな状態でゆくつもりです。
posted by 狭依彦 at 11:49| Comment(0) | 霊界物語第11巻 | 更新情報をチェックする

2019年12月15日

木花姫

霊界物語を読んでいると、神様の厳霊系統と瑞霊系統を意識しなければならない時があります。

大本信者ではない私は、教義を勉強したわけではないので、「正式な」この区分を知らずに過ごしてきました。
予言とかを読むには、あまり教義的なことはいらないからです。
しかし、このまま放っておくと分からないまま自分の一生を終えることになるかも知れないので、今回の通読の際には、検討しようと思っています。

戦前の宣教文書:『大本資料集成』より(改行 筆者)

第六章 厳霊瑞霊
 『天主一霊四魂を以て心を作り、之を活物に賦与す、地主三元八力を以て体を作り、之を万物に与ふ。故に其の霊を守るものは其の体、其の体を守るものは其の霊なり、他神有りて之を守るに非ず。是れ即ち上帝の命、永遠不易』とは道の大原の教ふるところにして、又大本の霊学観なり。
而して一霊とは直霊なり。四魂とは、荒魂、和魂、奇魂、幸魂なり。荒魂は真勇なり。和魂は真親なり。所謂経魂にして厳魂なれば、一々万々確固不易の霊能あり。奇魂は真智なり。幸魂は真愛なり。所謂緯魂にして瑞魂なり。操縦与奪自在の霊能あり。而して天下一般の活物、皆此の四魂を多少なりとも具備せざるは無し。
荒和二魂の活動完全なる霊魂を称して厳の魂と謂ひ、奇幸二魂の活動完全なる霊魂を称して瑞の魂と謂ふ。
而して直霊能く四魂を主宰し、完全なる活動を為さしむる場合を称して、伊都能売の霊魂と謂ふ。
大本祝詞に曰く『直霊魂をして益々光美はしき伊都能売霊魂と為さしめ玉へ』とあるは、各人四魂を研き、神に等しき活動を為すべき、伊都能売の御魂とならむ事を祈るに在り。然れば厳の御魂は教祖に限定し、瑞の御魂は教主輔に限定せるが如く思考するは、大なる誤解なり。各人皆進んで厳の魂、瑞の魂は愚か、伊都能売御魂の活用が出来る所まで、磨き上げて神業を補佐されむ事を希望する次第なり。

大本教のHPでの祭神には「大本は、天地万有を生成化育したもう霊力体の大元霊(だいげんれい)にまします独一真神(どくいつしんしん)をはじめ奉り、大地を修理固成したまえる祖神(そしん)厳霊(げんれい)国常立尊(くにとこたちのみこと)、瑞霊(ずいれい)豊雲野尊(とよくもぬのみこと)、そのほか正しい神々を大本皇大御神(おほもとすめおほみかみ)と仰ぎ、斎きまつります。」とありますので、上の引用文と、大本教に対する「常識」から考えると次のようになるのでは。

独一真神:天地万有を生成化育したもう霊力体の大元霊。
    天之御中主大神。
    大国常立尊。

厳霊:大地を修理固成したまえる祖神。
   国常立尊。
   丑の金神。
   出口直。厳霊の神格に充たされて神諭を伝達し、救世の基を開き、顕幽両界を守る。
   荒魂和魂二魂の活動完全なる霊魂。
   アマテラス。

瑞霊:(国常立尊の妻神)。
   豊雲野尊。
   坤の金神。
   出口王仁三郎。
   愛善信真の大道を啓示し、万民の罪を贖(あがな)い、救世主神として顕幽両界を救いたもう。
   素盞嗚尊。スサノウ。
   奇魂幸魂二魂の活動完全なる霊魂。

伊都能売(いずのめ)霊:
   直霊能く四魂を主宰し、完全なる活動を為さしむる場合。

ちょっと書きすぎかも知れません。スサノウは厳瑞を超越した存在であるかも?

こうやって考えてゆくと、いろいろ疑問が出ます。
厳霊+瑞霊=伊都能売
これは合っているような気がします。
厳霊+瑞霊=伊都能売=独一真神
これは、合っているのでしょうか。違うのでしょうか。今の私もどちらか分かりません。

あと、天の御三体の大神という神々がいらっしゃります。
ここまで入れると関係が分からなくなります。

霊界物語第1巻第22章 国祖御隠退の御因縁

天では天照大御神、日の大神(伊邪那岐尊)、月の大神(伊邪那美尊)、この三体の大神が、地の高天原に御降臨あそばし給ひ、国常立尊の神政および幽政のお手伝ひを遊ばされることになつた。
(中略)
暴悪なる神々は盤古大神と大自在天神とを押し立て、遮二無二におのが要求を貫徹せむとし、つひには天の御三体の大神様の御舎まで汚し奉るといふことになり、国常立尊に退隠の御命令を下し給はむことを要請した。さて天の御三体の大神様は、国常立尊は臣系となつてゐらるるが、元来は大国常立尊は元の祖神であらせたまひ、御三体の大神様といへども、元来は国常立尊の生みたまうた御関係が坐します故、天の大神様も御真情としては、国常立尊を退隠せしむるに忍びずと考へたまうたなれど、ここに時節の已むなきを覚りたまひ、涙を流しつつ勇猛心を振起したまひ、すべての骨肉の情をすて、しばらく八百万の神々の進言を、御採用あらせらるることになつた。そのとき天の大神様は、国祖に対して後日の再起を以心伝心的に言ひ含みたまひて、国常立尊に御退隠をお命じになり、天に御帰還遊ばされた。

このあたりの事を語りすぎると、「教義に関することを外部者が云々するな」とお叱りになる方もおられるので、検討はこのあたりにしたいと思います。

やはり、混乱の中で検討は終わるのですが、今回、検討したのは、木花姫は厳霊なのか瑞霊なのかを知りたいからなのです。

木花姫は霊界物語の最初からずっと出ていて、例えば「野立彦、野立姫、木花姫」のようにセットで出てくることが多いです。この場合では、野立彦=厳霊、野立姫=瑞霊ですので、果たして木花姫の神格は?

また、第2巻総説で「(註)本巻において、国治立命、豊国姫命、国大立命、稚桜姫命、木花姫命となるのは、神界の命によって仮称したものです。」とあって、木花姫以外は名前が変わっているのに、木花姫だけは変わっていないのです。

木花姫の霊界物語での最初の登場。
霊界物語第1巻第31章 九山八海

時しも山の頂上より、鮮麗たとふるに物なき一大光輝が虹のごとく立ち昇つた。その光は上に高く登りゆくほど扇を開きしごとく拡がり、中天において五色の雲をおこし、雲の戸開いて威厳高く美しき天人無数に現はれたまひ、その天人は山上に立てる大八洲彦命の前に降り真澄の珠を与へられた。その天人の頭首は木花姫命であつた。

自分の昔の記録を見ると、2011年に検討したことが、ありました。忘れていました。

霊界物語40巻 仁愛の真相

木花姫の神様も矢張り五六七大神様の一部または全部の御活動を遊ばすのだよ。また天照大御神と顕現遊ばすこともあり、棚機姫と現はれたり、或は木花咲耶姫と現はれたり、観自在天となつたり、観世音菩薩となつたり、或は蚊取別、蚊々虎、カール、丹州等と現はれ給ふ事もあり、素盞嗚尊となる事もあり、神様は申すに及ばず、人間にも獣にも、虫族にも、草木にも変現して万有を済度し給ふのが五六七大神様の御真相だ。要するに五六七大神は大和魂の根源神とも云ふべき神様だ。

当時は次のように書いています。

一般的にこの章は非常に重要であると言われているが、信仰として物語を読んでいない私には、どうしてもなじめなかった。例えば、上記の文章であれば「大和魂の根源神」というところに目がゆき、日本戦前の「大和魂」との比較などをしてしまう。しかし、この文章、木花姫=根源神のことであることを言っているのでは。

今回、いくつか文章を見つけました。

霊界物語 入蒙記 第8章 聖雄と英雄(太字筆者)

神素盞嗚尊の聖霊、万有愛護の為め大八洲彦命と顕現し、更に化生して釈迦如来と成り、印度に降臨し、再び昇天して其聖霊蒙古興安嶺に降り、瑞霊化生の肉体に宿り、地教山に於て仏果を修了し、蜻州出生の肉体を藉りて、高熊山に現はれ、衆生を救ふ。時に年歯将に二十有八歳なり。二十九歳の秋九月八日更に聖地桶伏山に坤金神豊国主命と現はれ、天教山に修して観世音菩薩木花姫命と現じ、五拾弐歳を以て伊都能売御魂(弥勒最勝妙如来)となり、普く衆生済度の為め更に蒙古に降り、活仏として、万有愛護の誓願を成就し、五六七の神世を建設す。
 南無弥勒最勝妙如来謹請再拝

瑞霊弐拾八歳にして成道し、日州霊鷲山に顕現し、三拾歳にして弥仙山に再臨し、三十三相木花咲耶姫と現じ、天教山の秀霊と現じ最勝妙如来として、五拾弐歳円山にて苦集滅道を説き道法礼節を開示す。教章将に三千三百三十三章也。五拾四歳仏縁最も深き蒙古に顕現し、現代仏法の邪曲を正し、真正の仏教を樹立し、普く一切の衆生をして天国浄土に安住せしむ、阿難尊者其他の仏弟子の精霊随従す。将に五六七の祥代完成万民和楽の大本なり。
 惟神霊幸倍坐世
 南無最勝妙如来

また、大本教関係の本にもその関係の話があったので、引用しておきます

『暁の烏』井上留五郎 (太字、改行 筆者)

(二)三代教主の御役
 三代教主は天教山木花姫命のご精霊(木花咲耶姫命)下り給う肉の宮でありまして、開祖様の教統を継承して神界に奉仕すべき聖職であります。
 三代様は、二大真人によりて成れる三五教を享受して、これを永遠に伝うるの基礎を確立され、いわゆる水晶の世のはじまりの大本教主として報身のミロクのお働きをなさるのであります。この水晶の世と云うことにつき聖師様二代様は左の如く訓示さるるのであります。
「『三代の世になれば水晶の世になる』と云う神諭を取り違いしてはならぬ。三代教主が表に立てば直ぐにも水晶の世になると思うのは大間違いである。水晶の世となして、これを三代教主に渡すのが、定められたる神誓神約である。もし然らずして三代の徳を傷つくるようなことがあっては、ミロク御神業に大支障を来たし、神様に申し訳なきこととなるから大本人はこれを心得ていて貰いたい」

 ミロク御神業と木花姫命とのご関係がいかに緊要なるかは霊界物語に詳述されているところでありますが、左にその一節を摘録しておきます。
「……前略……ここに当山(天教山)の神霊たりし木花姫は、神、顕、幽の三界に出没して、三十三相に身を現じ貴賤貧富、老幼男女、禽獣虫魚とも変化し、三界の衆生を救済し、天国を地上に建設するため、天地人、和合の神と現れたまい、智仁勇の三徳を兼備し、国祖国治立命の再出現を待たせ給うたのである。
 木花姫は顕、幽、神における三千世界を守護し給いしその神徳の一時に顕彰したまう時節到来したうたのである。これを神諭には
『三千世界一度に開く梅の花』
と示されたのである。木花とは梅の花の意である。梅の花は花の兄と云い、兄をこのかみと云う。現代人は木の花と云えば、桜の花としか思うていないようである。節分の夜を期して隠れたまいし国祖国治立の大神以下の神々は、再び時節到来し、煎豆の花の咲くという節分の夜に、地獄の釜の蓋を開けて、再びここに神国の長閑な御世を建てさせ給う。故に梅の花は節分をもって花の唇を開くのである。桜の花は一月後れに弥生の空にはじめて花の唇を開くのを見ても、木の花とは桜の花に非ざる事を窺い知らるるのである。
 智仁勇の三徳を兼備して、顕幽神の三界を守らせたまう木花姫の事を、仏者は称して観世音菩薩と云い、最勝妙如来とも云い、また観世音菩薩を、西国三十三箇所に配し祭りたるも、三十三相に顕現したまう神徳の惟神的に表示されしものにして、決して偶然ではないのである。霊山高熊山の所在地たる穴太の里に、聖観世音を祭られたるも、神界における何かの深き因縁でなければならぬと思う。瑞月は幼少の時より、この観世音を信じ、かつ産土の小幡神社を無意識的に信仰したるも、何かの神のお引き合わせであったことと思うのである。惟神霊幸倍坐世」(霊界物語霊主体従第六巻二七四 富士と鳴戸 参照)

 ちなみに、木花姫は天之御中主大神の別名であって、仏典のいわゆる観音のことであります。木花咲耶姫命は木花姫のご分身であって、地上にご顕現し給うた時の御名であります。この時は観世音菩薩と称するのであります。(神の国九〇号以降 伊都能売の題下に詳しくご説示になっております)

木花姫は、霊界物語ではお茶目な姿もよくあらわしますので、私には、天之御中主大神とはイメージが違うような気がします。
こうやって検討しだすと、非常に混乱してきます。
正しい解釈を持った誰かに、それを教わるのがいいかも?

posted by 狭依彦 at 13:29| Comment(0) | 霊界物語第09巻 | 更新情報をチェックする

2019年12月11日

アフガニスタンと十支族

王仁三郎と日猶同祖論とはかなり深い関係があると思います。
霊界物語でも、それらしい所は沢山あります。

また、淡路島の裏神業ではそのものズバリの話だと思います。

淡路島

最近、私のところにも日猶同祖論関係の本が来ており(買っており)、いろいろ勉強しはじめているところです。

四国剣山関係。大杉博さんの著作。

『神聖の系譜』 小嶋秋彦 創英社/三省堂書店
この本は、詳しすぎて読みにくいです。著者も自分でそう書いています。

また、たまたま、次の本もAmazonで見つけました。
『失われた十部族の足跡』 アビグドール・シャハン著 NPO法人 神戸平和研究所
この本に書かれていることを調べていたら、次のHPを見つけました。

アフガニスタンのイスラエル10部族の行方

このHPの地図が参考になります。

霊界物語でもアフガニスタンとかイランなどが出てきます。
もしかして、その場所が失われた十支族と関係しているかも?なんて、感じています。

なお、私自身は、日本人が十支族の末裔だとして、「それで?何か嬉しいの」という立場です。

posted by 狭依彦 at 14:28| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2019年12月09日

縄文ネイティブ-長吉秀夫著

この本、AMAZONで送料をただにするために、たまたま買って読みましたが、とても良い本だと思います。

考古学的では全く無い縄文本で、とても、気に入りました。

長吉秀夫という著者は、大麻のことをやっている人だそうです。

長吉 夢や希望がないと、生きられないですよね
北山 そう。それをどう見出すか……たぶん原発にしても、なくそうという意志がどこかに働いているのなら、生きようと思うひとが増えてくると思うんだよ。原発がないとやっていけないというひとが増えれば増えるほど、ネガティブなちからにどんどんやられていってしまうというのがこの国のありさまであって、先がなかなか見えないからね。その先を与えるのは、今は政治家の仕事だよね。
長吉 本来はそうですね。でもまったく仕事をしていない。
北山 本当だよね。泣きたくなるくらい、なにもやっていないよね。くだらないことしかやっていない。
長吉 真逆のことをやっていますよね。
北山 そうね。終わらせるために努力してるってことだもんね。

北山さんは、北山耕平さんで、アメリカ・ネイティブ・インディアンの関係では有名な人です。






posted by 狭依彦 at 21:29| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2019年12月08日

三笠丸と朝日丸-物語のアトランティス

まずは、霊界物語の霊主体従に出てくる伊弉冊(イザナミ)命について考えて見たいと思います。

伊弉冊命について、容姿を描写されたところがあります。

第9巻第5章
向ふの大船には、気高き女神舷頭に立ちあらはれ、涼しき瞳滴るが如く、楚々たる容貌、窈窕(ようちょう)たる姿、いづこともなく威厳に満ち東天を拝して何事か祈るものの如くなり。(伊弉冊命
傍に眉秀で鼻筋通り、色飽くまで白く、筋骨たくましく、眼光炯々として人を射る大神人立ちゐたり。(日の出神

すごくいい女のようですね。
さて、霊主体従に出てくる伊弉冊命はその実態がつかみにくくなっています。
古事記の解釈で出てきますし、邪神がなりすましている場面もあります。

第10巻に大洪水後の大要が書かれています。

第10巻第15章言霊別
 一旦天地の大変動により新に建てられたる地上の世界は、又もや邪神の荒ぶる世となり、諸善神は天に帰り、或は地中に潜み、幽界に入りたまひて、陰の守護を遊ばさるる事となりしため、再び常世彦、常世姫の系統は、ウラル彦、ウラル姫と出現し、ウラル山を中心として割拠し、自ら盤古神王と偽称し、大国彦、大国姫の一派は邪神のためにその精魂を誑惑され、ロッキー山に立て籠り、自ら常世神王と称し、遂には伊弉冊命、日の出神と僣称し、天下の神政を私せむとする野望を懐くに至れり。

 ここに伊弉冊命は、この惨状を見るに忍びず、自ら邪神の根源地たる黄泉の国に出でまして邪神を帰順せしめ、万一帰順せしむるを得ざるまでも、地上の世界に荒び疎び来らざるやう、牽制運動のために、黄泉国に出でまし、次で海中の竜宮城に現はれ、種々の神策を施し給ひしが、一切の幽政を国治立命、稚桜姫命に委任し、海中の竜宮を乙米姫命に委任し、自らロッキー山に至らむと言挙し給ひて、窃に天教山に帰らせ給ひ、又もや地教山に身を忍びて、修理固成の神業に就かせ給ひつつありたるなり

 天地の神人は、此周到なる御経綸を知らず、伊弉冊命は黄泉の国に下り給ひしものと固く信じ居たるに、伊弉冊命のロッキー山に現はれ給ふとの神勅を聞くや、得たり賢しとして元の大自在天にして後の常世神王となりし大国彦は、大国姫その他の部下と謀り、黄泉島を占領して、地上の権利を掌握せむとしたれば、大神は遂に前代未聞の黄泉比良坂の神戦鬼闘を開始さるるに致りたるなり。

「自らロッキー山に至らむと言挙し給ひて、窃に天教山に帰らせ給ひ」。自分でロッキー山に行くと言って、天教山に帰っています。
ロッキー山では大国姫(邪神)がイザナミを詐称しているのに、これって何なんだろう?変な行動です。

ここで出て来る、黄泉(よもつ)国、海中の竜宮城(島だと明示されている)、ロッキー山、天教山、また、別の所で出て来る黄泉(よもつ)島の位置関係が難しいことになります。

第8巻では、黄泉国=海の竜宮でしょう。

第8巻第24章「盲目審神」
伊弉冊命の火の神を生みまして、黄泉国に至りましたるその御神慮は、黄泉国より葦原の瑞穂の国に向つて、荒び疎び来る曲津神達を黄泉国に封じて、地上に現はれ来らざるやう牽制的の御神策に出でさせられたるなり。それより黄泉神は海の竜宮に居所を変じ、再び葦原の瑞穂の国を攪乱せむとする形勢見えしより、又もや海の竜宮に伊弉冊大神は到らせたまひ、茲に牽制的経綸を行はせ給ひつつありける。乙米姫命を身代りとなして黄泉神を竜宮に封じ置き、自らは日の出神に迎へられて、ロッキー山に立籠るべく言挙げしたまひ、窃に日の出神、面那芸司とともに伊弉諾の大神の在ます天教山に帰りたまひぬ。

第9巻では次のように書かれています。

三笠丸が出発した港は、アフリカのヨルの港。
智利(テル=チリ)の国へ向かって出航。

第3章「三笠丸」
「三笠丸は青葉滴る岸を離れて西へ西へと波の琴を弾じながら、海面静かに滑つて行く。」
第4章
「この時前方より、白帆をあげた大船小船、幾十隻となく此方に向つて、艫の音勇ましく風を孕み進み来るあり。」
第5章
数十艘の大船小船は真帆に風を孕んで、堂々と陣容を整へ進み来る。三笠丸は風に逆らひながら、櫂の音高く進み行く。向ふの大船には、気高き女神舷頭に立ちあらはれ、涼しき瞳滴るが如く、楚々たる容貌、窈窕たる姿、いづこともなく威厳に満ち東天を拝して何事か祈るものの如くなり。傍に眉秀で鼻筋通り、色飽くまで白く、筋骨たくましく、眼光炯々として人を射る大神人立ちゐたり。
(日の出神の歌の一部)
醜のあつまる黄泉島  黄泉軍を言向けて
 世は太平の波の上  皇大神に従ひて

「然るに思ひもかけぬ此の海原で、伊邪那美の神様にお目にかかるといふは、何とした有難い事でございませうか。あゝ実に、貴女様はお父上を探ねてお出で遊ばす船の上で、あの世へ一旦行つた神様が、再び此の世へ船に乗つて現はれ、何処かは知らぬが東を指してお出ましになつた事を思へば、お父上に御面会遊ばすのは決して絶望ではありませぬ。

第5章で伊弉冊命と日の出神が出て来るのですが、これは、海中の竜宮城を出て天教山に向かっているところでしょう。

ここの日の出神の歌から考えると、黄泉国=海中の竜宮城=黄泉島だと考えられるでしょう。

第9巻を総合して考えると、次のようになります。
三笠丸はアフリカから西回りで南米チリに向かっている。これは、大西洋を通っているということ。
大西洋上で東に向かう伊弉冊命一行と行き合った。伊弉冊命一行が向かっているのはヨーロッパ・アフリカの方向。

黄泉島については、太平洋上にあると明示されているようです。

第9巻総説歌
宇宙の外に身を置いて  五十六億七千万歳
年遡り霊界の      奇しき神代の物語
赤道直下に雪が降り   太平洋の真中に
縦が二千と七百浬    横が三千一百浬
黄泉の島や竜宮城    訳のわからぬことばかり
羽根の生えたる人間や  角の生えたる人が出る
夢か現か誠か嘘か    嘘ぢやあるまい誠ぢやなかろ
ホンにわからぬ物語。

物語の黄泉比良坂の戦いでも、ロッキー山から出陣するのだから、太平洋にあった方が納得が行きます。

さて、日の出神は朝日丸に乗って海中の竜宮城に行っています。これは、第8巻の話です。

朝日丸は日の出神を乗せてアフリカから南米チリに向かっています。
この朝日丸は、東向き(太平洋)、西向き(大西洋)のどちらのコースで行ったかは、物語では示されていません。
この途中で日の出神は海底の竜宮城に行っています。海底とあるが島のことであると明示されています。
三笠丸のコースだと大西洋ということになりますが、そうなると黄泉島は大西洋にあることになりますので、朝日丸は太平洋コースを行ったのでしょう。

さておき、三笠と朝日は大日本帝国海軍の戦艦の名前のようです。たぶん。

Wiki
軍艦「三笠(みかさ)」は、敷島型戦艦の四番艦。イギリスのヴィッカース社で建造され、1902年(明治35年)3月に竣工。奈良県にある三笠山(春日山)にちなんで命名された。 船籍港は京都府舞鶴市の舞鶴港。同型艦は「敷島」「初瀬」「朝日」。
1904年(明治37年)からの日露戦争では連合艦隊旗艦を務め、連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将らが座乗した。1905年(明治38年)5月末、連合艦隊旗艦として日本海海戦を戦う。同年9月11日、佐世保港で爆沈した後に浮揚・修理され、1908年(明治41年)4月下旬に修理工事を終えた。1912年(大正元年)10月3日、前部火薬庫火災事故を起こす。
大正時代は北方警備に従事した(シベリア出兵)。1921年(大正10年)9月1日、海防艦に類別変更。1923年(大正12年)9月1日、横須賀軍港で関東大震災に遭遇、着底した。ワシントン海軍軍縮条約により除籍され、横須賀で記念艦となった。

物語の三笠丸に戻ると、太平洋にある黄泉島から天教山へ向かうのは西に行けば良いようなのに、東回りで向かっています。

天教山は富士山だと思っていましたが、ウラルの近くにあるのでは、ふとそう思えます。

霊界物語にムー大陸が出て来るのは有名な話なのですが、こうやってグチャグチャと考えてきて、アトランティスの話も出ているのではと感じる私です。


posted by 狭依彦 at 13:36| Comment(0) | 霊界物語第09巻 | 更新情報をチェックする

2019年12月07日

やっとYoutubeできた

聖者の涙、末子姫の歌、飴屋。
この歌は、何年も前に作ったものです。
一度Youtubeに上げていたのですが、アカウントをロックされてしまい、消されてしまいました。

この度、やっとこの3本を上げることができました。

新しく作るのは難しいので、ここまでだと思います。


posted by 狭依彦 at 11:37| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

飴屋

霊界物語第52巻第17章 飴屋


オニドでフリガナ付きで読む。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm5217

霊界物語のこの当たりは文助という人が出てくる物語です。

その物語の間に、理論的な教え解説と言ってもよいものが挟まっています。

前の章は文助の話で、この章の最初に、「霊主体従とは、人間の内分が神に向つて開け、唯神を愛し、神を理解し、善徳を積み、真の智慧を輝かし、信の真徳に居り、外的の事物に些しも拘泥せざる状態を云ふのである。」というような文章が続きます。
そして、霊主体従、体主霊従の解説、中有界の八衢の説明などがあります。
そして、唐突に、「文助は漸くにして八衢の関所に着いた。白、赤二人の守衛に比較的叮嚀に導かれ、門の傍のロハ台の上に腰打かけ、息を休めて居た。半町ばかり手前に当つて騒がしい音が聞えて来た・・・・。」と物語に戻ります。

何で、こんな書き方をしてあるのか。
何か意図があるのでしょう。

霊主体従、体主霊従の理論は当時の検閲にかかるような箇所では無いと思われます。
そうなると、読者の視線はこの理論に引き付けられ、文助の物語は意識の表層をすべってゆくだけになるのでは。

トンチントントン チンチントントン
チントン チントン チンチントン
飴の中からお多やんエ、お多やんが嫌なら金時だ
金時嫌なら達磨さま
兎でも餅つく、お猿でも
十五のお月さんの餅つきに
よう似た飴屋のお爺さんよ
こりやこりや其処らの子供達
飴が欲しけりや幾何でもやらう
しかしお金と引きかへぢや
地獄の沙汰でも金次第
お金が無ければ甘い汁
どうしてもかうしても吸はりやせぬ
お母の乳よりお砂糖より
もつと甘いのは此飴ぢや
あめが下には他人と云ふ事は
無いものぞやと三五教の
神様が云はしやつたけれど
何程あめの下ぢやとて
金が無ければ他人ぢやぞ
金が敵の世の中だ
このお爺さんが今打つ鉦は
ミロク三会の明けの鐘
金の無い奴ア近寄るな
トンチントントン、チンチントントン
チントン、チントン、チンチントン

アメがいろいろな意味で使われています。
アメ=飴、アメ=天。

「あめ」が太字になってるところは、一つの意味は「天」で、「あめの下」=天下、世間くらいの意味でしょう。
しかし、太字で表しているのは、あめ=アメリカではないかと思います。
アメリカは話の中に出てきます。また、赤と白の守衛というのが出てきますが、これは日本の事でしょう。日本の警察(治安を担当している)か?

「そんな日の丸のやうな赤い顔をして睨んだ所が、此亜米利加屋さまはビクとも致しませぬわいな、ヤンキイモンキイ云はずに、黙言つて引込んで居なさい。」

「ミロク三会」が気になります。
王仁三郎の『水鏡』では次のように説明されています。

天のミロク、地のミロク、人のミロクと揃ふた時がミロク三会である。天からは大元霊たる主神が地に下り、地からは国祖国常立尊が地のミロクとして現はれ、人間は高い系統をもつて地上に肉体を現はし、至粋至純の霊魂を宿し、天のミロクと地のミロクの内流をうけて暗黒世界の光明となり、現、幽、神の三界を根本的に救済する暁、即ち日の出の御代、岩戸開きの聖代をさしてミロク三会の暁と云ふのである。

「ミロク三会」の鐘を鳴らすと飴屋が言っているので、これは権威を使って自分のやっていることを正当化するためのものでしょう。

さてさて、この歌が歌われたのが大正時代、でも、2019年の現代の方がこの歌に合っている時代ではないでしょうか。

アメリカおよびアメリカの手下の日本人から、日本の人は「飴の中からお多やんエ、お多やんが嫌なら金時だ、金時嫌なら達磨さま、兎でも餅つく、お猿でも」と手を変え品を変え洗脳されているのではないでしょうか。

大正時代には、まだ赤と白の守衛がいましたが、今は、そんなものはいるのでしょうか?


posted by 狭依彦 at 11:29| Comment(0) | 霊界物語を聞く | 更新情報をチェックする

2019年12月06日

末子姫の歌

末子姫の歌

Youtube動画

オニドでフリガナ付きで読む
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3011

霊界物語第30巻海洋万里巳の巻
第11章言霊の妙
より、末子姫の歌。区切りは狭依彦。

誠の神の造らしし     此天地の不思議さよ
天津御空は青雲の     底ひも知らぬ天の川
森羅万象睥睨し      清く流れて果てしなく
星の光はキラキラと    永遠に輝く美はしさ
天津日の神東天に     昇りましては又西に
清き姿を隠しまし     夜は又月の大御神
清き光を投げ玉ひ     下界の万有一切に
恵の露を垂れ玉ふ     月日は清く天渡り
浜の真砂の数の如     光眩ゆき百星の
或は白く又赤く      淡き濃き色取交ぜて
際涯も知らぬ大空を    飾らせ玉ふ尊さよ
眼を転じて葦原の     瑞穂の国を眺むれば
山野は青く茂り合ひ    野辺の千草はまちまちに
青赤白黄紫と       咲き乱れたる楽しさよ
河の流れはいと清く    稲麦豆粟黍の類
所狭きまで稔りつつ    味よき木実は野に山に
枝もたわわに香りけり   

天津御空の神国を
此土の上に相写し     四方の神人木や草や
鳥獣や虫族の       小さきものに至る迄
神の御水火をかけ玉ひ   尊き霊を配らせて
天と地とは睦び合ひ    影と日向は抱き合ひ
男子女子は相睦び     上と下とは隔てなく
互に心を打明けて     暮す此世は神の国
高天原の活映し      天地の合せ鏡ぞや

あゝ惟神々々       神の御霊の幸はひて
風吹渡り荒波の      巽の池に現れませる
神の御水火に生れたる   大蛇の神よ活神よ
汝は神の子神の宮     吾れも神の子神の宮
汝と妾とのみならず    山河木草鳥獣
大魚小魚虫族も      神の恵に漏れざらめ

况して尊き汝が姿     人の体にいや優り
いよいよ太くいや長く   陸にも棲めば水に棲み
雲にも乗りて大空を    翔りて昇る神力を
生れ乍らに持たせつつ   何故狭き此池に
鎮まりまして世の人に   悪き災なし玉ふや

神素盞嗚大神が      八洲の国に蟠る
八岐大蛇や醜神を     稜威の言霊宣べ伝へ
伊吹の狭霧吹棄てて    すべての物に安息を
与へ給はる大神業     此神業の一つだも
補ひ奉り万有に      恵の乳を含ませて
救はむものと末子姫    捨子の姫を伴ひて
まだ十六の莟の身をば   雨に曬され荒風に
梳づりつつ霜をふみ    雪を渉りてやうやうに
浜辺に着きて荒波に    猛り狂へる和田の原
漸く越えてテルの国    テル山峠の急坂を
登りつ下りつ膝栗毛    鞭うち進む二人連れ
かよわき女の身を持つて  天涯万里の此島に
渡り来るも何故ぞ     顕幽神の三界の
身魂を助け救ふ為     あゝ惟神々々
神の水火より生れたる   末子の姫の言霊を
完美に委曲にきこしめし  一日も早く此池を
見すてて天に昇りませ   如何なる罪のあるとても
千座の置戸を負ひ玉ふ   神素盞嗚の贖ひに
忽ち消ゆる春の雪     花は紅、葉は緑
吾言霊に汝が命      感じ玉はば今直に
此れの古巣を振棄てて   元つ御座に返りませ
あゝ惟神々々       御霊幸はひましませよ

この歌は以前、たまたまボーカロイドに歌わせたので自分でも霊界物語で一番好きな歌です。
それを歌詞を付けて動画にしました。

最初の宇宙から地球の地上までの描写。
「四方の神人木や草や、鳥獣や虫族の、小さきものに至る迄、神の御水火をかけ玉ひ、尊き霊を配らせて」のあたりの、独一真神(私はONE神)と世界との関係が、難しい言葉で解説されているのではなく、何か感得できるように歌われているところ。
2者を比較して述べられているところ。
天と地とは睦び合ひ
影と日向は抱き合ひ
男子女子は相睦び
上と下とは隔てなく
「影と日向」というのは、世界にあるものすべて神様が造ったというか神様の分霊であるので、邪神でさえも神様の分霊ということなのでしょう。
でもね、「上と下」というのは、いろいろ解釈すれば、納得できるものになるのだろうけれど、いつ見ても、気に入らねえ言葉です。
かなり、年食った今も、気に入りません。
インド占星術をやっているので、カースト思想みたいなものにも触れているので、そろそろ「トゲ」みたいに感じなくても良いようなものですが、どうにもなりませんね。

この「巽の池」にいる大蛇はオロチで八岐大蛇もオロチなので、一緒の種類でしょうか?

さて、これまで一番好きだったのは、「まだ十六の莟(つぼみ)の身をば 雨に曬(さら)され荒風に 梳(くしけ)づりつつ霜をふみ 雪を渉りてやうやうに」
たぶん、莟(つぼみ)というのは処女のことなのでしょう。風雨にさらされて、長い黒髪が傷んでいる。
さて、どんな少女を想像すればよいのか。
かなり長い年月を生きてきて、現代に生きている私は、何も想像できなくなっています。

posted by 狭依彦 at 12:25| Comment(0) | 霊界物語を聞く | 更新情報をチェックする

結構忘れています

霊界物語第30巻の11章の末子姫の歌を昔、歌わせたのがあるので、詞をつけて動画にしてYouTubeに上げようとしています。

少しだけ解説を加えようとしましたが、なかなか言葉が出てきません。

特に、教義に関するところは、今まであまりやってこなかったので全然出てきません。
狭依彦に教義的な事は語れないもんね・・・みたいなことでしょうか。

癪に障りますが、人の解説を読んで勉強しなおさなければならないかも。
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2019年12月04日

聖者の涙

聖者の涙を動画にしてYoutubeに上げました。

原文をオニドで見る(「かな」がふってあります)

この歌はこれまで何度もとりあげています。
今日その歌を聞いたら、何年前かに聞いたときより、ますます世相がこのようになってきているのを感じました。

八岐大蛇や醜狐     曲鬼探女の蔓れる
暗黒無道の世の中は   仁義道徳影も無く
常世の闇の如く也    人の心は日に荒び
世道は月に頽廃し    親子疎んじ睨み合ひ
朋友信を忘却し     各自に悪罵嘲笑し
上下は常に反目し    意志の疎隔は恐ろしく
紛擾絶ゆる暇も無く   資本家労働者相対し
農商工は振起せず    不景気風は吹き捲り
官民互に卑みて     政令全く行へず
国家社会は刻々に    危機に瀕しつ諸々の
譎詐の曲業時を得て   暴戻盛に行はる
乱れ切つたる娑婆世界  挽回すべき由も無し
医学衛生完備して    悪疫益々蔓延し
交通機関は完備して   有無通ずるの途もなし
国家の富力増進し    而して饑餓は人々の
頭に刻々迫り来る    法警成るに従ひて
殺傷頻りに行はれ    生産倍々夥多にして
物価は時々に凋落し   国庫漸く窮乏し
兌換借款滔々と     経済界を危くし
国防成るに従ひて    国辱頻りに興るあり
国家の選良は大切な   国議を軽視し侮辱して
喧々囂々市場の如し   国帑を猥に浪費して
国家破産の緒を開く   人の思想は悪化して
噴火山上にある如く   何時爆発も計られず
此をば思ひ彼想ひ    夜も碌々に眠られず
涙は腮辺に滂沱たり   誠の神の現はれて
治め玉はる時はいつ   天地の神も放り坐し
風伯怒りを相発し    颱風屡到来し
雷電ひらめき激怒して  天津御空に鳴り渡る
水神忽ち嚇怒して    水難頻りに続発し
海神怒濤を捲き起し   地上の蒼生を洗ひ去り
大地の神は旱魃を    もたらし地疫を払ひまし
地震の神は地軸をば   時々に動揺し玉ひつ
汚れし家屋を焼倒し   火竜は紅蓮の舌を吐き
地上の汚穢を焼き尽す  軍神怒りて天賊や
地妖を隈無く鏖殺し   清め玉ふぞ畏けれ
神の恵の幸ひて     天来未知の大偉人
現はれ来り天地の    諸の穢を潔斎し
誠の道にかなひしと   神に選まれ了ふせたる
民をば常永に救ひまし  五六七の御代と成るなれば
爰に初めて天国は    地上に芽出度顕現し
無上至楽の世と成らむ  邪神を懲し善神を
救はせ玉ふ御経綸    謂ふも畏き限り也
是ぞ全く皇神の     吾等に賜ひし御遺訓ぞ
あゝ惟神々々      御霊幸はひましませよ

この歌は、霊界物語第39巻の序歌です。
大正十一年十月廿日という日付があります。
1922年10月20日。
この時代、歌に歌われている通りかというと、結構、その通りのようです。

1920年に大正バブルが崩壊して、長期デフレが始まりました。
「生産倍々夥多にして 物価は時々に凋落し 国庫漸く窮乏し」これは、そのことですね。デフレの事は、当時の世相を反映したものでしょう。
また、政治の不安定も、内閣がコロコロ代わり、1913年~1936年(23年で16の内閣)ということですので、政治に関して書いたところも、その時代を反映しているような。
「医学衛生完備して 悪疫益々蔓延」の所は、1919年にスペイン風邪が流行って、日本でも40万人程度が死亡したようです。たぶん、これのことでしょう。
地震は関東大震災、1923年(大正12年)9月1日。これは、歌より後ですので、違いますね。
このように、この歌は、当時の世相を反映したものであると言っていいでしょう。
これを現代で考えると、次のようになるでしょう。

八岐大蛇や醜狐     曲鬼探女の蔓れる
八岐大蛇、醜狐、曲鬼は三大邪神。探女は女の武器を最大限使うスパイ。
八岐大蛇、醜狐はやっぱり、国際金融支配者というところでしょう。
曲鬼というのは、ユダヤの邪鬼。私は、今の朱症さんがそうだと思います。そのグループでは、王様またはプリンス。

親子疎んじ睨み合ひ
最近多い、子供の虐待はこれではないでしょうか。

上下は常に反目し 意志の疎隔は恐ろしく
上は統治する者、下はされる者。霊界物語ではその上下の区別は天から与えられたもののように書いてある(いや、無いか・・・)
今はもう下には反目する力も残されていないのでは。

譎詐の曲業時を得て   暴戻盛に行はる
譎詐(きっさ)の曲業とは、詐欺のことで、オレオレからかなり変わりましたが、その種の詐欺はいっぱいですね。
ぼう‐れい【暴戻】は[名・形動]荒々しく、道理に反する行いをすること。
これも、次から次へと、上の人がやっていることが見つかります。最終的には、「やっていない」ことになるのですが。

国家の富力増進し    而して饑餓は人々の
頭に刻々迫り来る
大正時代から見ると、次の昭和25年までくらいの間が、饑餓に苦しめられた時代でしょう。
これからもそんな時代になるのかな?

国家の選良は大切な   国議を軽視し侮辱して
喧々囂々市場の如し   国帑を猥(みだり)に浪費して
これなど、まさにその通りでは。
こく‐ど【国×帑】は《「帑」は、かねぐらの意》国家の財産。国財。
たぶん、金融緩和ということではないでしょうか。

風伯怒りを相発し    颱風屡到来し
雷電ひらめき激怒して  天津御空に鳴り渡る
水神忽ち嚇怒して    水難頻りに続発し
海神怒濤を捲き起し   地上の蒼生を洗ひ去り
大地の神は旱魃を    もたらし地疫を払ひまし
地震の神は地軸をば   時々に動揺し玉ひつ
汚れし家屋を焼倒し   火竜は紅蓮の舌を吐き
地上の汚穢を焼き尽す
水神忽ち嚇怒しては洪水のことでしょう。海神怒濤を捲き起しは津波。
このようなことは、修祓といい、穢れを清めることになるのでしょう。

このあたり、最近NHKなどでも気候変動として「宣伝」していますね。

軍神怒りて天賊や 地妖を隈無く鏖殺し 清め玉ふぞ畏けれ
この後で起こるクーデター。1932年(昭和7年)5月15日の五一五事件、1936年2月26日の二・二六事件などを言っているとしか思えません。
しかし、これらの事件は「天賊や地妖」を殺し、清めたということでしょうか。ここの王仁三郎の意識は承服できないところではあります。

天来未知の大偉人
現はれ来り天地の    諸の穢を潔斎し
誠の道にかなひしと   神に選まれ了ふせたる
民をば常永に救ひまし  五六七の御代と成るなれば
「天来未知の大偉人」とは王仁三郎のことなのでしょうか?

私は、八岐大蛇、醜狐、曲鬼はそう簡単には倒れないような気がしています。言向け和すのも難しいのでは。言向け和そうとして、逆に取り込まれるのでは。

さて、これから天変地異が起こって、彼らも倒れるのでしょうか・・・
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2019年12月01日

エトナ火山の爆発

第7巻 第42章 分水嶺

折しも、轟然たる大音響聞ゆると見る間に、東北の天に当つて黒煙濛々と立ち昇り、大岩石は火弾となりて地上に落下し来りぬ。一行はこの爆音に思はず歩みを止め、しばし途上に佇立して、その惨澹たる光景を遥にうち仰ぎける。
面那芸『モシモシ、あれは何処の山が破裂したのでせうか。吾々の前途を祝するのでせうか、あるひは悪神が呪つてるのではありますまいか』
祝姫『いいえ、吾々は神様の御用のために斯うして天下を遍歴する者、天地の大神様は我々の一行の門出を祝するために、煙火を上げて下さつたのでせう。最前も日の出神様が有為転変の世の中ぢやとおつしやつたでせう』
面那芸『さうでせうかな。それにしても余り大きな音でした。私は耻しい事だが、胆玉が転覆しかけましたよ』
日出神『アハヽヽヽヽ、も一寸面那芸さま、度胸をしつかりせないとこンな事ではない、今かうして吾々の通つてゐる大地が爆発するかも知れない。その時には貴方は何うする心算だ』
面那芸『さあ刹那心ですな。善悪正邪の分水嶺、一寸先のことは分りませぬわ』
日出神『さうでせう、さうでせう。しかしこの世の中はすべて神様の意の儘だ。今破裂したのは、あれはヱトナの火山だ。タコマ山の祭典の時に、爆発して以来、今日まで鎮まつてゐたのだが、又もや突然爆発したのは吾々に対する天の警告だらう。竜宮城の言霊別の神はヱトナ火山の爆発した一刹那、悪神に毒を盛られて大変に苦しまれたといふことだ。吾々も注意せないと、筑紫の都へ行つて、何ンな悪神の計略の罠に陥れられるやも知れないから、気を付けなくてはならぬ』
高照彦『さういふ時には吾々はどうしたらよろしいか』
日出神『別に何うするも斯うするもありませぬ。ただ天地を自由にし、風雨雷霆を叱咤するといふ神言を、無駄口を言ふ暇があつたら、奏上さへすれば凡ての災は払はれて了ふのです』

エトナの火山はよく爆発しているので、何らか特別な警告ということもないと思います。
祝詞では、果たして止まるのでしょうか?
でも、爆発の写真は、すごいですね。
物語の、バックグラウンドのイメージに良いかも知れません。

2019年7月20日 大噴火したイタリアのエトナ火山


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国治立の神=エンキ?

2006年に私・狭依彦が書いた記事を校正しました。
なかなか、すごいことを考えていたものです。

第7巻 第28章 不思議の窟は日の出神がアフリカに上陸する話の一部です。

日の出神は常世の国(アメリカ)に行こうとしていたが、風の都合で船がアフリカに着いてしまいました。

上陸した場所はアフリカの熊襲(くまそ)の国。それから山奥に入ったところで天然の洞窟群を見つけます。そこでは、三五教の小島別が「髪の毛の赤い、顔の炭ほど黒い、やや赤銅色を帯びた」男達と口論していました。男達は「ここは、常世神王の領分で三五教の宣伝歌を歌うな」と言います。

男達は小島別のことを「天から降ってきた神さまの化物かも知れない」と言っています。

そこに、「奥深き洞窟の中より、茫然として白き怪しき影が、蚊帳を透かしてみるがごとくぼんやりと現れ、不思議な声で、『ここは常世神王の隠れ場所と造られた、一大秘密の天仙郷、この八つの巌窟は、八頭八尾の大蛇の隠れ場所である。自分は八岐の大蛇の大棟梁、蛇々雲彦(じゃじゃくもひこ)である』と名乗り、小島別の過去の行状をあばき、責め立てます。

ここで、白き影は自分を「オニ神」と言う。このオニは「鬼」の一番上の点をとった字です。

小島別は自分の行状を責められ、実はこの神は尊い神であると思います。
そして、「あなたはウ丶丶丶ウシト丶丶丶トラ」とつぶやきます。

この場所に、日の出神と一緒に来ていた祝姫(はふりひめ)は「この場所は天の岩戸ではないか?この神は国治立の神の命の分魂、建日の別の大神は、天の岩戸を開かむと、導きたまふ親心」と歌い、この神が建日別神であることを示唆します。

日の出神は「ここは尊き神様の御隠家、建日別とは仮りの御神名、やがて御本名を名乗り玉ふ時も来たるべし。貴下は此処へ永らく鎮まりて、この巌窟の前に宮を建て、純世姫命の御魂を祭り、熊襲の国の人民を守つて下さい、吾々はこの山を越えて肥の国に行かねばなりませぬから」と言い、小島別が建日別と名乗り、この巌窟を永遠に守護することとなりました。

これ、追放された国治立の神がここに隠れていたのですよね?

ところで、この場所は、現在のジンバブエの場所ではないかと狭依彦は思っています。
アヌンナキの金鉱山があった場所。確か、エンキがここにいたことになっていたと思います。

国治立の神=エンキ、あり得たらすごいですね。

また、面白い話もあります。

2006年12月05日

7万年前の蛇儀式

世界最古の儀式が発見された:7万年前のヘビを崇拝する儀式

ボツワナで新たに発見された考古学的遺物によって、我々のアフリカの先祖は7万年前に儀式を行っていたことが分かった。これは、ヨーロッパで最古とされているよりも3万年も古いものである。この衝撃的な発見によって、アフリカが新人のゆりかごであったという説が強化された……

……彼らの創造神話によると、人類はpython(【名-1】大蛇、ニシキヘビ 【名-2】〈俗〉ペニス 【@】パイソン)の子孫であり、丘の周りにあった古代の不毛な川床は、大蛇が水を求めて丘を取り巻いたことから作られたという。

この写真がどこから来たのか分かりませんが、アフリカで撮られたものなら、アフリカにも八岐大蛇がいたことを示唆しているのでしょう。

pyto1.jpg

国治立の神=エンキ=八岐大蛇とは言う気はありません。


posted by 狭依彦 at 12:09| Comment(0) | 霊界物語第07巻 | 更新情報をチェックする

天の御柱、国の御柱、撞の御柱

天の御柱の神、国の御柱の神、撞の御柱の神の3柱がおられます。
そのままずばりの箇所があります。

第6巻 第21章 真木柱
伊弉諾大神の又の御名を、天の御柱の神といひ、伊弉冊大神の又の御名を、国の御柱の神といひ、天照大神の又の御名を、撞の御柱の神といふ。

私はこれで、天の御柱=伊弉諾大神、国の御柱=伊弉冊大神、撞の御柱=天照大神と思い込んでいましたが、実は御柱は職名でした。

第6巻 総説
諾冊(なぎなみ)二尊の、淤能碁呂嶋(おのころじま)へ御降臨ありし後は、伊弉諾の大神、八尋殿を造りて、これに造化の三神を祭り玉ひ、同殿同床の制を布き、伊弉冊尊を、国の御柱神として、地上神政の主管者たらしめ玉うたのであります。

物語の第7章では、神名を並べる時に天の御柱=伊弉諾大神、国の御柱=伊弉冊大神、撞の御柱=天照大神が並んでいない箇所が目につきます。

第7巻 第26章 アオウエイ
『我々は、畏れ多くも天教山に現はれ給へる撞御柱大御神、天御柱大御神、木花姫の神教を開かせたまふ黄金山下の三五教の守神、埴安彦神の宣伝使小島別なるぞ。・・・』

第7巻 第40章 三人奇遇
日出神『貴下は熊公と仰せになつたが、初めてお目にかかつた時より、凡人ならじと睨ンでおきましたが、果して我が推量に違はず此国の大酋長なりしか、重ね重ねのお心遣ひ感謝の至りに堪へませぬ。我々は神伊弉諾大神の落胤にして、日の出神と申すもの、世の大立替に際し撞の大神は天の浮橋に立ち、それより天教山に降り玉ひて八百万の国魂の神を生ませ玉ひ、我々をして国魂神を間配らせ玉ふのであります。この後はどうか私の指揮に従つて貰ひたい』
日の出神も高照彦神も此奇遇に神恩の深きを感謝し、直に神籬を立て国治立大神、豊国姫大神、伊弉諾大神、撞の御柱大神を鎮祭し、天津祝詞を奏上し、一同歓びを尽して宴会を閉ぢたりにける。

なお、第40章 三人奇遇は、すごい章です。
伊弉諾大神の子供、国治立大神の子供、神素盞嗚の大神の子供が出てきます。
このあたりは、非常に難しいですね。
国治立大神の子供なんて、あり得るのでしょうか?

さて、DBを「撞の御柱」検索してみると、撞の御柱=天照大神とは言い切れない箇所がいくつかあります。
霊界物語のこのあたりの章は、古事記を下敷きにして書かれているはずですから、天照大神を外すわけにはいかなかったのでしょう。

こうやって、細かいところを詮索してゆくと、霊界物語はところどころに埋め込んである皇国史観を外して読まないと意味がとれないと思いますが、さて、誰がどうやって外すのでしょう。
難しい問題です。


posted by 狭依彦 at 11:48| Comment(0) | 霊界物語第07巻 | 更新情報をチェックする

日の出神の言葉

そこだけ取り出すと説教臭いですが、物語の中で、滑稽話なども交えて、語られると、じーんとしみてくるような言葉があると思います。
ぜひ、物語の中で読まれることをお勧めします。

第7巻第29章 山上の眺

日出神『・・・我々は翌日の事は心配しなくてもよい。今と云ふこの瞬間に善を思ひ、善を言ひ、善を行つたらよいのだ。我々はその刹那々々を清く正しく勤めて行けばよい。取越苦労も過越苦労も、何にもならない。一息後のこの世は、もはや過去となつて吾々のものではない。また一息先といへども、それは未来だ。人間の分際で取越苦労をしたり、過越苦労をしたつて何にもならない。マア何事も神様に任したがよからうよ』

第7巻 第36章 豊日別

日の出神は憐れを催ほして、

『人間は総て神様の分霊であります。生れつき悪人は一人も無い。唯心の弛みより種々の悪魔に左右されて、悪行を為すのであつて、決して肉体の所作ではない。肉体は皆その悪神に使はれるのであるから、そこで神様は直日に見直し、聞き直し、宣り直し給ふのである。又その悪魔と雖も、心を改むればきつと御許しになるのである。况して神の分霊たる人間の貴方、必ず御心配あるな』


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2019年11月29日

大本三美歌43番


昔、霊界物語の三美歌をボーカロイドに歌わせたことがありました。



最近、それを聞いて、今度は自分のギター伴奏で歌ってみようかと、また、聞いています。

まずは、第四三(三一七)
    一
 月雪よ花よと  愛(め)でにし
 わがこののこしたる  衣(ころも)のそで
 ながめてなげく折  御(み)かみは
 やすくわが身霊(みたま)を  なぐさめたまふ
   (折返)
 めぐしき吾子よ  神の辺(へ)に
 のぼりゆき祈りを  ともにせよや。
    二
 わかれゆくわが子を  おくりぬ
 なみだの雨晴れて  雲はちれり
 花さき匂ひ充つる  たびぢを
 いさみすすみ行けや  月すむ夜半(よわ)。
   (折返)
    三
 神にひとしかりし  わが子よ
 今ちちは年老い  母はやみぬ
 然(さ)れど汝(な)が魂  いさみて
 わが世を守りつつ  神国(みくに)へゆけ。
   (折返)

このメロディ、どこかで聞いたことがありますが、全く何だったか思い出せません。
讃美歌の317番もこのメロディとは違う。確か、王仁三郎の三美歌は、古いバージョンの讃美歌に準拠しているはずなので、探すことができません。
そこで、仕方がないので、iphoneでSoundHoundというアプリをダウンロードして、鼻歌を聞かせてみると、「故郷の人々」(フォスター)と分かりました。

ということで、明治36年の讃美歌317で、別所梅之助が創作した「花よりも愛でに」という曲でした。

一、花よりも愛(め)でにし わが子よ
  のこしし衣(ころも)だに いとなつかし
  たのみなき旅路を いずこに
  さまよえるか今は 花ちる暮(くれ)
 (おりかえし)
  わが子よわが子よ 速(と)く帰り
  心ゆく祈りを 共にせずや
 
二、かすむまで送りし わが子よ
  み空(そら)かける雁(かり)に 便り寄(よ)せよ
  たのみなき旅路を いずこに
  さまよえるか今は 月澄(す)む夜半(よわ)
 
三、神の使(つか)いと見し わが子よ
  汝(な)が父はおとろえ 母は老いぬ
  たのみなき旅路を いずこに
  さまよえるか今は 雪のあした

比較してみましょう。

 月雪よ花よと  愛(め)でにし
 花よりも愛(め)でにし わが子よ
 わがこののこしたる  衣(ころも)のそで のこしし衣(ころも)だに いとなつかし
 ながめてなげく折  御(み)かみは たのみなき旅路を いずこに
 やすくわが身霊(みたま)を  なぐさめたまふ さまよえるか今は 花ちる暮(くれ)
 めぐしき吾子よ  神の辺(へ)に わが子よわが子よ 速(と)く帰り
 のぼりゆき祈りを  ともにせよや。 心ゆく祈りを 共にせずや
  
 わかれゆくわが子を  おくりぬ
 かすむまで送りし わが子よ
 なみだの雨晴れて  雲はちれり
 み空(そら)かける雁(かり)に 便り寄(よ)せよ
 花さき匂ひ充つる  たびぢを
 たのみなき旅路を いずこに
 いさみすすみ行けや  月すむ夜半(よわ)。
 さまよえるか今は 月澄(す)む夜半(よわ)
  
 神にひとしかりし  わが子よ
 神の使(つか)いと見し わが子よ
 今ちちは年老い  母はやみぬ
 汝(な)が父はおとろえ 母は老いぬ
 然(さ)れど汝(な)が魂  いさみて
 たのみなき旅路を いずこに
 わが世を守りつつ  神国(みくに)へゆけ。
 さまよえるか今は 雪のあした

英語の讃美歌はどうなっているか分かりませんが「花よりも愛でに」が元歌であるのは間違いないでしょうから、比較することで、王仁三郎の立場が分かるような気がします。


私は大本の信仰者ではありませんし、霊界物語も予言もしくは現在の我々が置かれた状況が分かると考えて読んでいる者なので、信仰的なことを語るのはおこがましいですが、この二つの歌を比べてみて、霊界物語の方は、私たちが神と等しい分霊であること、死ぬということは、元居たところに帰ること、などがよく分かると思います。

わがこののこしたる  衣(ころも)のそで」の歌詞が2行目に出てきて、「悲しい歌だな」と感じてしまいますが、そうではない歌だと思います。

どこかのだれかも、こんな比較をやっていると思いますが、探すのもなかなか難しいので、自分で比較してみました。
posted by 狭依彦 at 11:48| Comment(0) | 霊界物語を聞く | 更新情報をチェックする